そして黙る。

先週無くした携帯が出てきて先週罹患した風邪も治癒し、やれやれと言った風情なのですが、先日観に行った「沈黙~サイレンス~」の話を忘れていたので、今からその話をしようと思うのですが。やはり話題が拡がりすぎちゃうんですよね。他民族・他宗教への無理解とか、キリスト教の矛盾だとか。申し訳ないがアタシみたいなポンコツ豚野郎が喋るのも如何なものものかと。

まあいいや。始めてみましょう。

この映画がこの時季に公開された理由を、どうしても考えてしまう。やはり米大統領に対する異議申立てなのかな。とか考える。眼に映る全てに政治的意味を見出してしまうのは、明らかに症状だと思うが。

この映画に登場するイエズス会の宣教師も、徳川幕府側の人物も、どちらも異国の人間をよく理解していない。という点で共通している。
宣教師は長崎の貧しい村のキリシタンを下に見ていて、神の教えを伝えてやろう。としているように見えるし、幕府の役人は海外の宗教を危険なものと断定してハードな拷問を課している。

どちらも他者の存在を認めていない。

最後に宣教師は信仰を棄てることになるのだが、その瞬間に彼は神の存在を改めて信じるようになる。この展開は皮肉でもあるが、陰惨な暴力に満ちた映画を爽やかなものにしている。信仰にはロザリオなんて要らないし、イエスのレリーフなんか踏んだってどうでもいい。ただ静かに祈りさえすればいい。そういう意味での「沈黙」なのだろうな。と思ったのでした。